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池嶋 多津江(国大1)

「私」を生きる

 人にはその人のためだけに用意された人生のシナリオがあるー私はいつもそう思って生きている。人は「使命」を託されて生まれてくる、とも言えるかもしれない。

 私は現在、中国国家外国專家局から招聘され、上海市にある同済大学外国語学院日本語学科で教壇に立っている。大学卒業後、<東京銀行(現 三菱東京UFG銀行)→外資系銀行(現 The Bank of New York Mellon)→6年間の子育て→私立高校英語科教諭→定年退職>という人生を歩んできたが、まさに「還暦」、60歳を越えて、「私を生きている」と感じている。

 同済大学は上海市では复旦大学、交通大学に次ぐ名門大学で国家重点大学でもある。留学生も外国人教師も多く、キャンパス内にはさまざまな言語が飛び交い、中国の大学にいるとは思えないほど自由で「開かれた」雰囲気である。日本語学科の学生たち(95%以上)は在学中に半年あるいは一年、日本の大学(主に国立大学)に交換留学する。ここ中国では留学することは学生生活の送り方としてごく当然のことと受け止められているようである。

 「日本概況」の授業中のことである。「国土(地理的条件)が国民性を作るー民族性の違いは国土の違いから生まれる。小平野=小集落が散在する日本の国土が、日本人の「和を尊ぶ」国民性を作り、『秩序感覚』や『チームワークが得意な国民』を育てることなった。一方、中国の広大な平原=広大な国土は人民を総動員できる強大な権力を必要とし、『独裁社会』を生み出した」という向芳孝氏(神戸市 会社員http://www.rui.jp/tb/tb.php/msg_308597)の持論を紹介したところ、学生たちから猛烈な反発があった。「中国は民主主義国家であって、独裁国家ではない」というのが学生たちの意見であった。実は学生たちの意見を引き出すために私が仕掛けたのである。大学に入学するまでひたすら暗記を中心とする「詰め込み教育」を受けてきた学生たちに「考える習慣」・「自分の意見を論理的に組み立て、自信をもって表明する習慣」を身につけさせるためである。「日本概況は『日本』・『日本人』を知るための授業であるが、『それでは中国はどうなんだろう・中国人はどうなんだろう』というように軸足を「中国人」であることにおいて、問題意識を持って私の講義に耳を傾けてください」と常日頃言っているのだが、学生たちはそれを実践できるようになっている。「小論文(写作)」の授業でも、「『書く』ことは『思考する』である。自分を取り巻く社会の様々な事象について『考える』習慣を身につけるのがこの授業の目的である」と繰り返し訴えている。「日语口语」の授業でも、「视听」・「报刊选读」の授業でも「考えて、自分の意見を表明すること」を重視し、展開している。

2015年12月1日 2年生 <日语口语>の授業      2016年 6月7日 4年生

(熊本大学からの留学生とともに     (卒業論文の「口答試験」を終えて、晴れ晴会話の授業を楽しみました) れとした表情の4年生の学生たち)

2013年から14年にかけて(外国專家局からの招聘)、河北省秦皇島市にある<秦皇島市実験中学(外国語教育に特化した公立高校>から、「高校卒業後すぐに日本の大学に留学できる日本語教育」を託されて、日本語学科国際班の学生たちを教えたことがある。ある日、「なぜ私は日本の大学に留学したいのか」というテーマで作文を書くように指示したところ、一名を除いて他の生徒は一行も書けなかった。

日本の大学に留学する明確な目的がなかったからである。翌日から、日本に留学する目的を明確化するために一人ずつ時間をかけて個人面談を実施した。目的が明確になると生徒たちの表情が変わった。「親のためではなく、自分のために留学するのだ」ということを自分の中で確認できたからである。生徒と私との距離は一気に縮まり、「この生徒たちはどんなことがあっても日本に銃を向けることはない」と確信した。

私にとって「教育に対する姿勢」は「万国共通」である。「『学ぼうとしている学生』をrespect する」ということである。従って、「200%の準備をして授業に臨む」ということである。この思いと姿勢があれば、学生たちは必ず、私の授業に、私の語ることに耳を傾けてくれる。

2013年9月7日 秦皇島市実験中学2年生   2014年4月6日秦皇島市実験中学3年生 (「教师节」の日にプレゼントをもらいました)  (日本に出発する前日の国際班の生徒たち)

この学校で驚いたことがあった。数日間ずっと元気のない男子生徒がいた。自閉症から立ち直ったばかりの生徒だったので、注意深く語りかけると、「クラスの仲間は皆、先生の役に立っているのに、自分だけが先生の役に立っていない」と吐露したのである。「中国語は話せなくていいので、とにかく大学の授業に対応できるように日本語教育をしてほしい」と言われて赴任したので、日常生活は国際班の生徒たちが支えてくれていたのである。生徒たちは思いやりに溢れ、本当に温かかった。「風邪をひいた」と言うと、「先生は薬を飲みましたか」とすぐに尋ねてくれた。学校のとなりの包子屋さんの店員たちも、果物屋・八百屋の老板たちも私が話す拙い中国語を聴き取り、「听好!」とほめ、いつも優しく見守ってくれた。市政府の外事処の職員もよく食事に誘ってくれた。

現在赴任中の同済大学でも同じである。私が「髪を切りたい」というと、学生たちは一斉にネットで「評判のいい美容院」を検索してくれ、連れて行ってくれる。「先生、行きたいところがあったらいつでも案内します」と多くの学生が声をかけてくれる。国際関係学科(私は「冷戦」の真最中に国際法を専攻していた)に在籍していたものとして単純すぎる疑問であると分かっていても、「戦争はなぜ起きるのか」と思わずにはいられない。「政冷経熱」と言うよりも「政冷民温」とでも言うべきかもしれない。

2014年7月3日 河北省秦皇島市実験中学   2014年7月2日 河北省秦皇島市実験中学

(別れを前にして日本語学科1年生生徒全員と)(別れを前にして日本語学科2年生生徒全員と) 

 最近、篠田桃紅さんが「103歳になってわかったこと」(幻冬舎単行本)の中でお書きになっていた一言一言に頷ける。「人生の中で自分が立ちうる立場は、そうどこにでもあるわけではありません。それだから、ようやく得たときは・・・」・「受け入れられるか、認められるかよりも、行動したことに意義がある」・「今の人たちはせっかくの美しい日本語を文化として次の世代に伝えきれていないように思います」・「日常の中に日本の文化がある」

 外国で日本語教師として教壇に立ち、生活しているとき、学生も周囲の人たちも私の言動から、「日本」や「日本人」を知ることになる。秦皇市実験中学を去る時、保護者の方々が「送別会」を催してくれた。その席で副校長が「日本人は『真面目な国民』だと聞いていたが、池嶋先生の一年間を見ていて、中国人が最も見倣わなければならないのは『日本人の真面目さ』だ」と言ってくれた。

 日本語教師になったのは、私の「人生のシナリオ」に書かれていた必然だったような気がする。

2012年12月22日               2012年12月24日

フィリピン マニラ   フィリピン マニラ

Emilio Aguinaldo College             Emilio Aguinaldo College

Hotel & Restaurant Management 学科の学生と 看護学科の学生たちと

                               (2016年7月7日記す)

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