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小野崎 なおみ(英大34)

5カ国に暮らして

1990年4月 2歳10ヵ月の長男と6ヵ月の次男を連れてネパール、カトマンズの地に。

国際医療協力を志す夫に伴っての長い海外生活の始まりでした。

インドと中国に挟まれた内陸国であるネパールは、当時インドによる経済封鎖のため物資不足。粉ミルク、離乳食、オムツ、医薬品、食料などを中心に約2トンの荷物をフランクフルト経由で空輸することから始まりました。

ポカラから望むマチャプチャレ

 ヒマラヤを望める大きな家に9人の使用人。犬、ウサギ、ニワトリと遊び、誕生日には動物園から象を借りて自宅の庭でエレファントライドです。日本では考えられないスケールの大きな生活でした。

 もちろん最貧国の一つであるネパールでは、十分な電気、水、ガス、ガソリン等が望めるべくもなく、乾季には水は完全にストップし電気は半日おきの計画停電でした。水はタンクローリー車を雇い、できるだけ人家のない高所を流れる川から汲んできます。その水を家の地下にある貯水槽に次亜塩素酸ソーダとともに溜め、電気が通じている間に屋上のタンクに上げます。蛇口をひねって出てくるのは川の水、それをろ過し煮沸、これを3回繰り返し、やっと飲用が可能です。プロパンガスが入手困難なので煮炊きはケロシンストーブで、暖は暖炉で、灯りはろうそくでした。

 庭では日本から持参した種で野菜を育てました。味噌・納豆・豆腐も作りました。お豆腐は薄く切ってさっと揚げれば油揚げに、厚く切ってゆっくり揚げれば厚揚げになり、とても重宝しました。海外青年協力隊出身の日本人が経営する農場から毎週2リットルの牛乳を分けて頂き、60℃で長時間殺菌します。固まった上層の膜を集めて攪拌すればバターに、お砂糖を加えて凍らせれば子供達のおやつのアイスクリーム(?)の完成です。

 時々リフレッシュと買い出しのためバンコクを訪れると、子供達はマクドナルドのハンバーガーに「ママ すっごく美味しいね~!」と大喜びでかぶりつき(ネパールはヒンズー教国のため牛肉は食べられません)、食堂のショーケースを見ては「食べる物がいっぱいあるー!」と大はしゃぎで走り回ります。一時帰国した際の夕食時には「明るいところで食べる夕ご飯って、美味しいね~!」と感動します。 

 日本はバブル期。3年間のネパール生活は、なかなかできない得難い経験でした。

1996年7月、アメリカ ボストンに。

 子供達はローレンス・スクールという公立小学校に通いました。日本人児童が多く​在籍し、常駐している3人の日本人の先生方が子供達をサポートしてくれます。小学3年生の理科の時間に「生卵を2階から落として割れない方法を考えなさい。」という宿題が出ました。子供達は思い思いに工夫し、実験し、その結果を考察します。息子は紙コップに生卵を入れビニール袋を糸で結び、パラシュートのような物を作り投下しました。風船を結び気球のような物を作った子も多かったです。梱包用の機材で丁寧に包んで投下した子もいました。中には宿題を忘れて自分の靴に生卵を入れて2階から落とし裸足で帰った子もいました。なかなか面白い授業ですが、我が息子の考察は「卵ってけっこう割れにくいと思いました!」とのことでした・・・。 

 大学院の勉強で必死の夫を余所目に、息子達はのびのびと勉強し、私はアフタースクールアクティビティで日本文化や簡単な日本語を教えたりし、楽しい1年間を過ごしました。

1999年8月 カンボジア プノンペンに。

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カンボジアは6世紀にクメール人の興した真臘に始まります。

9世紀初頭クメール王朝が成立し12〜13世紀に最盛期を迎え(アンコールワット等建造)その後フランスの植民地支配を経て独立。カンボジア王国が誕生します。

ベトナム戦争が始まるとアメリカ、南北ベトナムの介入によりカンボジアは内戦状態へ。原始共産制を唱えるポル・ポト率いるクメール・ルージュにより、知識人を中心に100~200万人(総人口の13~29%)の住民が虐殺されました。

1992年~93年の国連カンボジア暫定統治機構による統治を経てノロドム・シハヌーク殿下が国王に再即位し立憲君主制国家に。1999年、カンボジアがASEANに加盟した年に赴任したわたし達は、子供を随伴した第一陣組でした。

 当初はまだ地雷の心配や市内での銃撃戦もあり、安全対策には随分と気を使いました。移動は全てドアTOドアで車です。携帯電話が普及する前なので衛星電話を持たせての通学でした。自由に走り回れるのは学校だけでギャングエイジの息子達にはなかなかきつい状況でした。

 インターナショナルスクールは開校後間もなく、生徒は幼稚園から高校までで60人ほどで複式学級でした。高学年のカンボジア人生徒の中には運転手を脇に乗せ自分で運転してくる子もいました。もちろん無免許ですが政府高官や地元の有力者の子供達ですので先生達は見て見ぬふりです。息子達はそんな大人の事情を垣間見ることもありました。今では全日制の日本人学校があるそうですが、当時は補習校もなく私はその設立運動に加わりました。

 停電は頻繁にあっても、とにかく毎日電気がある。飲用できなくても蛇口を捻れば水が出る。ネパール時代よりは生活しやすく、子供達の学業環境整備に費やした3年半でした。

2008年4月 日本で生活することを選択した息子達を残し、スイス ジュネーブに。

 とても美しく永世中立国として平和のイメージが強いスイスですが、アパートの地下には核シェルターがあり(個人宅での核シェルター設置義務は2012年に撤廃されました)、マネーロンダリングの温床との批判が強い匿名性の高い銀行、基幹産業の精密機器や化学薬品は兵器に転用可能・・・となかなかの国です。連邦レベルで女性の参政権が認められたのが1971年で、最後のアッペンツェルン州が女性参政権を認めたのは1990年というのも驚きです。音に対する規制も厳しく、夜10時過ぎにはシャワーはもちろんトイレの水も流してはいけません。ひたすら静かに物音を立てずに我慢です。物価もとても高く、よそ者に対してあまり寛容ではない国なので、生活はしづらいです。

 私はUnited Nations Women's Guildの活動に参加していました。開発途上国で、貧しい女性や子供達を支援している50余りの団体への資金援助を主目的にするグループです。そこでは支援先の選定、資金集めの為のバザーや展示即売会の開催などを経験しました。久しぶりに子供達を介さない、私自身で切り開いた人間関係の中での8年半の生活はとても新鮮でした。

2016年7月 ミャンマー ヤンゴンに赴任帯同し現在に至っています。

 ミャンマーは6~7世紀に南部にモン族、8世紀にエーヤワディー川中流にピュー族、中部にビルマ族が・・・と現在は135の民族からなる多民族国家です。 

 1824年からの3回の英麺戦争に敗れてのち1886年、イギリス領インドに編入。第二次世界大戦を経て1948年、英連邦を離脱しビルマ連邦共和国として独立。ベトナム戦争や文化大革命の影響も受け、その後社会主義化しビルマ社会主義連邦共和国。26年間の民主化運動により社会主義政権が崩壊。デモを鎮圧した国軍が1989年、国名をミャンマー連邦に変更。アウン・サン・スーチー氏の自宅軟禁と開放を繰り返し、2005年、首都をネピドーへ。2008年、サイクロン・ナルギスにより死者8万5千人、行方不明者5万4千人。2011年、選挙に基づく国会召集。テイン・セイン氏、大統領就任。国名をミャンマー連邦共和国に。国軍とカチン独立軍との戦闘、ラカイン州における仏教徒とムスリムとの衝突。2015年、8つの少数民族武装組織との間で停戦合意。総選挙でスーチー氏率いるNLD大勝。2016年、スーチー氏、国家最高顧問ティン・チョウ氏、大統領の新政権発足。そんな状況下での赴任でした。

 途上国での生活はネパールとカンボジアで経験済み!と高を括っていましたが、日本とスイスで楽な生活をしてしまうと、すっかり鈍らになるものです。停電の多さや水道水が飲めない不便さ、どこからともなく大量発生する虫達に閉口し、悲鳴を上げながらの生活です。周りのミャンマー人はとても温厚で、蚊も殺さず窓から逃がしてあげるほどです。ラカイン州の報道とのギャップにはいろいろ考えさせられます。

 ネパールでも、カンボジアでも、ミャンマーでも、女性たちは大変良く働きます。

 ネパールはカースト制度の影響もありますが、生きるため、食べるために働く女性が多くいました。カンボジアでは子供に教育を受けさせるために働く女性が多かったように思います。ミャンマーには高学歴で社会の第一線で働く女性が多くいます。もちろん時代がずいぶん違うので単純比較はできませんが・・。

 28年前のネパールから始まり、今まで5ヵ国に、あわせて約18年暮らしました。長かったようでもあり、アッという間であったようにも思いますが、なかなか楽しい人生でした。そろそろ定年を考える年齢です。

まだもう少しこんな生活を続けるのも良いかしら・・・と夫と相談しながら、少し慣れたヤンゴンでの生活を満喫しています。

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